踏切で一時停止して思うことがある。
見晴らしがいい踏切で一時停止ラインで止まる前にしっかり左右確認が終わり、停止してからやることがなくなってしまうパターン。もはや停止からの確認が形だけの儀式となっている実感が馬鹿らしい。
踏切は徐行(すぐに停止できるゆっくりした速度)しながら左右確認で十分ではないのか?
踏切は危険なので確実な確認はわかるが、必ずしも停止しなくても、徐行しながらの確認でもいいのではないか?
道交法では踏切は一時停止
踏切の通過の仕方は道路交通法では次の通り。
車両等は、踏切を通過しようとするときは、踏切の直前(道路標識等による停止線が設けられているときは、その停止線の直前。以下この項において同じ。)で停止し、かつ、安全であることを確認した後でなければ進行してはならない。ただし、信号機の表示する信号に従うときは、踏切の直前で停止しないで進行することができる。
出典:道路交通法第33条
道路交通法では踏切で一時停止をして安全確認をして進行。信号機がある踏切で信号に従うときは停止せずに進行可能。
踏切で本当に一時停止が必要か
例えばアメリカでは普通自動車は踏切では一時停止をせず、速度を落としながら安全を確認して進行することが出来ます。
ニュージーランドでは踏切によって「止まれ(STOP)」と「必要に応じて停止(GIVE WAY)=徐行のようなもので相手に通行を優先」がありそれに従います。踏切前に「GIVE WAY」標識があれば徐行しながら安全確認をして通過します。
下はニュージーランドのセーフティ動画です。
海外の踏切事故動画には一時停止をしないで列車と衝突した例が多くありますが、それは一時停止がないからと言うより、そもそも徐行や確認さえもまともにしないで踏切内へ突っ込んでいます。
例えば見通しのいい踏切で、遮断器が上がっていて、停止線がある。
私は停止位置で止まるために減速をするが停止位置直前は(1mほど手前の約2-3秒間)ブレーキ踏むだけで暇なのでしっかり左右を見てしまい(視線をまっすぐ向いている時間が無駄)、停止時にすでに左右確認が終わってしまっていることが珍しくない。
列車が近づくとものすごい音がするが何も聞こえず静かだ。停止したときにはもうやることがない。
しかし決まりなので停止後にもう一度左右確認をするが、当然だが停止前に確認したとおり左右には何も見えないし音も聞こえない。左右見える範囲も停止前にやった確認時と変わらない。
このパターンでは停止がまるで意味がない単なる儀式で、やってることが馬鹿らしく感じ、私は何をやってるのかと、操り人形のようで恥ずかしくさえなる。もはや停止後の確認は形だけのダミー動作である。
もちろん見通しの悪い踏切では踏切直前で停止をしてからでないときちんと左右確認はできないが、障害物がなく見晴らしのいい踏切でも一律に一時停止という決まりが理解できません。
徐行しながら確認はできます。
踏切によって停止と徐行の標識が理想
見晴らしがよく停止直前に左右の確認が終わってしまう場合、停止してから左右の確認はあまりの意味の無さに馬鹿らしくなる。
もはやただの儀式でしかない気さえするが、これは踏切に限ったことではなく、その他の見晴らしのよく交通量が殆どない交差点での一時停止でも同様に言える。
例えばこの視界の開けた一時停止場所。
左も
右も
停止位置より手前から確認が可能。というか減速中の停止直前は暇なので左右を確認してしまう。
そして停止前に確認は終わってしまう。停止してからはもうやることがない。左右見ても同じ、見るだけ馬鹿らしい。だが決まりなので一応形だけ確認のふりをする。
停止してからのほうが確実に確認できるか?いいえ変わりません。
停止とはなんなのか。
もちろん見通しの悪い交差点では自分の存在を前もって相手に知らせる事もできるので一時停止は必要だと思います。しかし見通しの良い交差点で停止が必要でしょうか?徐行しながらの確認で十分ではないのでしょうか?
もちろん徐行からの確認は停止しては駄目だという意味ではないし、徐行でも、左右から車両や歩行者が来ていれば停止すればいい。
道路交通法はベストとは限らないと思う
二段階右折の手順(右ウインカーで左折レーン直進)もそうだが道交法は必ずしもベストな方法ではないように思います。
見通しの悪い踏切だけでなく、警報機と遮断器があり見通しが良い踏切でも一貫して一律の一時停止は、単に形式張ったもので、安全達成ではなく、内容よりも形式重視の動作にしか感じられない。
実用性ではなくやり方にこだわりすぎた方法を強制されるのはうんざりです。
停止が必要と思われる踏切では一時停止標識を付け、そうでない踏切では徐行標識を設置し、徐行しながら安全を確認して進行する(もちろん踏切内では停止禁止=前方が詰まっている場合は手前で止まる)方法を道路交通法に望みます。